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東京高等裁判所 昭和56年(う)801号 判決 1985年9月17日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人渋谷泉が差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官黒瀬忠義が差し出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一点(事実誤認の主張)について

一  所論は、要するに、被告人が原判示第二・二のA子の頸部を両手で絞扼するに際しては、確定的殺意はもとより、未必の殺意さえも有していなかったにもかかわらず、信用性のない被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に基づいて、被告人が確定的殺意をもって同女を殺害した事実を認定した原判決には事実の誤認がある、というのである。

しかしながら、被告人が確定的殺意をもって原判示第二・二のA子を殺害した旨原判決の認定説示するところは、当審もこれを正当なものとして肯認することができる。すなわち、原判決が原判示第二・二の事実認定の証拠として挙示する被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中、殺意の存在の点に関する供述の記載部分は、その供述内容自体に徴しても、他の関係諸証拠と対比してみても、十分に信用することができる。この点について所論は、被告人の知能程度と対比してみると、右の供述内容が不自然に理路整然としていて、かえってその信用性に疑問がある、という。しかし、後記二に述べるとおり、若干知能程度が劣るとはいえ、正常人と精神薄弱者との間の境界域程度の知能をもつ被告人としては、原判示のようにA子の頸部を両手で輪を作るような形で絞めつければ、その行為の性質上、同女を確定的に死に致らしめるという経験則を理解することは、可能であったはずである。また、被告人が昭和三四年一二月二三日山口地方裁判所において強姦致傷、殺人罪により無期懲役に処せられた前科(以下、前件ともいう。)の内容をなす殺人事件の実行に際しても、本件の場合と同様、両手で被害者の頸部を絞めて窒息死するに至らしめたものであることは、原判決の挙示する諸証拠に照らして明らかなところである。このように、被告人自身過去において両手で幼女の頸部を絞扼してこれを殺害した体験を有するわけである。したがって、右のような経験則や被告人自身の体験事実に徴しても、被告人が本件犯行に際し、殺意をもってA子の頸部を絞扼した旨の供述内容に不自然な点があるとは認められない。また、被告人自身原審公判廷において、同女を殺害するに至った動機の点について、「被告人が同女に対してわいせつ行為に及んだことが発覚すれば、仮出獄が取り消され、再び刑務所に収監される事態に立ち至ることなどをおそれて、その発覚を免れるため同女の殺害に及んだ。」旨を供述している事実に徴しても、これに沿う前記各供述調書中の動機に関する供述の信用性に疑いをいれる余地はない。そして、右の各供述調書のほか、原判決が挙示する関係諸証拠によれば、被告人が確定的な殺意をもって右の殺害を実行した事実を優に認定することができ、右認定に反する証拠はない。それゆえ、原判決が確定的殺意に基づいてA子を殺害した事実を認定したのは正当であって、所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

二  所論は、要するに、被告人は本件各犯行当時心神耗弱の状況にあったにもかかわらず、被告人の知能程度が精神薄弱に該当しない旨の誤った鑑定人福島章作成の鑑定書及び同人の原審公判廷における供述(以下「福島鑑定」という。)に基づいて、被告人が本件各犯行当時心神耗弱の状態にあったとする原審弁護人の主張を排斥した原判決には事実の誤認がある、というのである。

しかしながら、原判決が福島鑑定に依拠しつつ、被告人が本件各犯行当時心神耗弱の状態にはなかった旨「弁護人の主張に対する判断」の欄で詳細に説示しているところは、当裁判所もすべてこれを相当なものとして肯認することができる。なるほど、福島鑑定は、ベンダー・ゲシュタルト・テストの結果、粗点が一二一(パスカル・サッテル法)に達し、それが正常成人の数値をはるかに超えていて、精神薄弱の平均値に相当するとしながら、その内容は「回転」が全図形にみられ、それが粗点の過半(六四)を占めるところ、これを除けば五七点で境界域の知能と矛盾しない、としている。しかし、このように「回転」を除外し得る理由として、福島鑑定は、それがむしろ検査状況及び検査されること自体への被告人の抵抗感や葛藤を強く反映した結果と認められるため、これを除外して考察することに合理性があり、右数値のみによって器質性障害や精神薄弱と診断することはできない旨説明しているのであって、その趣旨とするところを正解すれば、妥当な判断として首肯することができ、所論の非難は当たらない。のみならず、当審において取り調べた鑑定人仲村禎夫作成の鑑定書(以下「仲村鑑定」という。)には、被告人に対しベンダー・ゲシュタルト・テストを実施した結果、得点は二一で、「全体的に雑な模写にはなっているが、一応未熟な形ではあるが、まとまりを持って転写されているといってよいと思われる。」という評価が記載されており、これによれば得点の数値よりしても、右テスト結果が正常人の領域に属し、格別の疑点を残さないことになるのである。しかも、このような心理テストは、ひっきょう、精神医学的診断の補助的手段のひとつとして位置づけられるものであるから、ここで肝心なことは、被告人の精神遅滞の有無に対する総合的判断いかんということであろう。この点につき、福島鑑定は、知能検査を含む各種の心理テストを実施した結果のほか、面接所見や本件記録などを総合したうえ、社会適応能力若しくは社会的有用性、すなわち、被告人が本件犯行当時、知能の正常者と殆ど変わるところなく稼働し、社会的にほぼ自立した生活を営んでいたという事情等をも考慮して、被告人の知能は普通域と精神薄弱との「境界域」(IQ指数で七〇台)にあり、精神薄弱に該当しないものとしている。この判断は、当審における仲村鑑定が、「被告人の知的能力は決して高いものでないことは明らかであるが、かといって精神遅滞(薄弱)といえる程低いものでもないようである。知能指数(IQ七五)と一致する境界線領域と判断するのが妥当と考える。」としていることに徴しても、正当なものとしてこれを肯認することができる。ところで、所論も指摘するように、前件に関する山口地裁の判決は、鑑定人中村敬三作成の鑑定書(以下、中村鑑定という。)に依拠し、被告人は犯行当時「精神薄弱の結果心神耗弱の状況にあった」と認定している。しかし、右中村鑑定が「被告人について精神薄弱の常況にあり、その程度は軽度、中等度、重症の三段階に大別した場合の中程度の下位に属する」とした鑑定結果には疑問がある、とする原判断は、その援用する関係証拠に徴し首肯せざるを得ないところであり、また、昭和三四年当時の被告人を対象とする右鑑定の結論をもって、直ちに本件福島鑑定の評価を左右し得るものとすることはできない。既に述べたように、およそ精神医学上精神遅滞の有無・程度の判断にあたっては、知能の程度と社会適応能力の二点を基準とすべきものとされているところ、知能については、一六歳乃至二〇歳以後はあまり変化しないのが一般的であるとされているが、他方、社会適応能力については、環境によって変化が生じうるものと考えられているのである。したがって、この点に関する福島鑑定の判断に矛盾や誤りがあるものとは認められない。そして、同鑑定によれば、被告人は、性格的には情性欠乏、意志薄弱などの異常性格傾向を、性的には異常性欲(性倒錯)としての「代償性児性愛」の性癖を有するが、内因性の精神病や脳器質性精神障害等の異常を疑うべき徴候はないというのであり、上来説示したところによれば、被告人が理非善悪を弁識し、かつ、この弁識に従って行動する能力は著しく減退していなかったと認めるのが相当である。所論が福島鑑定には重大な疑問があるとして指摘する諸点を逐一検討吟味してみても、その理由のないことは明らかである。してみれば、原判決が福島鑑定に基づいて、被告人は本件各犯行当時精神薄弱の状態にはなかったとして原審弁護人の前記主張を排斥した判断は正当であって、所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意第二(量刑不当の主張)について

所論は、要するに、被告人を死刑に処した原判決の量刑は、重きに過ぎて不当である、というのである。

そこで、記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも斟酌して検討するに、被告人の本件各犯行は、原判示のとおり、昭和五四年七月二八日午後五時ころ、被告人が独り住まいをしているアパート附近の人目につかない路上において、近隣に住む五歳の幼女に対しわいせつ行為に及んだという強制わいせつの行為と、同日午後九時ころ、右アパート附近のパチンコ店内で遊んでいたA子(当時三歳)を誘って右アパートの自室に連れ帰ったうえ、同女に対しわいせつ行為に及んだところ、同女が泣き出しそうな感じで「ママのところへ帰る。」といい出したため、右の犯行の発覚をおそれて同女を絞殺し、同女の死体を近隣のアパートの植込内に運んで遺棄したという強制わいせつ、殺人及び死体遺棄の行為である。それらは、いずれも疑うことを知らない純真無垢な幼女らのひ弱さに乗じて行った悪質な犯行であるうえ、とくに、A子に対する殺人に至っては、犯行の発覚を免れる目的をもってなんの罪もない、いたいけな無抵抗の幼女の貴重な生命を奪ったもので、同女が予期に反する被告人の兇暴な態度に驚き、恐怖のうちに絶命したであろうことは推認するに難くなく、まことに憐憫の情を禁じ得ないものがある。そして、遺族の被害感情も厳しく、社会的影響もまた重大である。被告人のかかる冷酷で非情な行為は、まさに憎んでも余りあるものというべきである。

これに加えて、われわれは被告人が本件と同種の前科を有する事実に注目しなければならない。被告人は、かつて二二歳の青年期に花摘みをしていた七歳の幼女を山林内に誘って強姦致傷に及んだうえ、その犯行の発覚をおそれて両手で同女の頸部を絞めつけてこれを殺害した強姦致傷、殺人被告事件により、昭和三四年一二月二三日山口地方裁判所において無期懲役に処せられ(右判決の依拠する中村鑑定に対する評価については、既に触れた。)、昭和四九年五月二三日仮出獄を許されて広島刑務所を出所するまで右の刑に服していた経歴を有するのである。右の仮出獄に際して、被告人は広島刑務所長から仮出獄中に遵守すべき事項として、被害者の冥福を祈り反省の日々を送ることのほか、幼女に対して淫らな行為に及ぶことのないよう指示されていたにもかかわらず、右の指示に違反して、右の仮出獄中またも二人の幼女に対し同種の強制わいせつの犯行に及び、さらに、うち一人に対する犯行の発覚を免れる目的で、またまた、あたら幼い生命を絶ったのである。この点において本件犯行は、もはや手を施す余地のないほど著しい反社会的な性格と矯正不可能な性癖の発現として、最高度の非難を免れないものといわなければならない。

もとより、本件は「代償性児性愛」という被告人の性癖に負う事案であって、被告人が知的能力に若干劣り、かつ、情性欠乏、意思薄弱などの異常性格傾向を有するが故に、安易に本件各犯行に走ったものであることに思いを致すと、一面においては、かかる性格的欠陥を背負った被告人に対して、あわれみの情を覚えざるを得ない。被告人は生来知恵遅れであったため、幼児のころから生育環境に恵まれず、また、その生育歴が被告人の右の性癖や異常性格傾向を形成する一要因をなしており、かりに、かかる事情さえなければ、被告人も本件各犯行に及ぶこともなかったであろうと考えられるから、それは、やはり被告人のために同情すべき一事情であると思われる。しかしながら、他面、いわゆる異常性格(精神病質)は、原則として、行為者の刑事責任能力に影響を及ぼすものではないとされているところ、情性欠乏、意思薄弱という被告人の異常性格傾向の種別、内容及びその程度にかんがみると、被告人としてはかかる児性愛の性癖や異常性格傾向を有しながらも、正常な自我機能が存続しているため、自らがもつ反社会的性癖・性格を充分に認識し、したがって、自省自戒することによって本件各犯行を抑制すべきであり、また、そうすることが期待できたはずであって、このことは、福島鑑定の指摘するところである。現に、証拠によって明らかなように、被告人は人目を避けるなど犯行が発覚しないよう警戒しつつ本件各わいせつ行為を実行し、また、A子に対するわいせつ行為の発覚を免れるために同女の殺害並びにその方法が万全とはいえないにしろその死体を遺棄する犯行にまで及んでいることにかんがみると、被告人は、自分の犯した各わいせつ行為はもとより右の殺人・死体遺棄の各行為が、いずれも法律上許されない犯罪行為であって、もしこれらが発覚すれば、仮出獄が取り消されるであろうことを含め、自己の行為の重大性について十分に認識していたものといわざるを得ないのである。したがって、本件が被告人の前記性癖や異常性格傾向に根ざす犯行であるからといって、これをもって被告人の刑責を軽減すべき事由とすることはできない。

なお、当審における仲村鑑定が、被告人は理非善悪の弁識能力とこれに従って行動する能力が著しく減退していたと認められないとし、その責任能力を肯定しながら、なお右能力が「可成り減退していた」と考えるのが妥当、とする点は、叙上説示に徴したやすく採用し難い。

このようにみてくると、反社会的性癖・性格をもつ被告人について仮出獄を認めたことが妥当性を欠き、かつまた、保護観察所や保護司による保護観察の運用にも適切を欠く点があったとする所論に配慮し、これに、原判決後当審に至って被告人の実兄が被害者A子の実父に対して慰藉料として一〇〇万円を支払ったことなど、肯認しうる所論指摘の被告人に有利な諸事情を斟酌しても、被告人の刑責はなお極めて重大というほかはない。

いうまでもなく、死刑が生命そのものを奪う冷厳な極刑であることにかんがみ、その適用が慎重の上にも慎重に行われなければならないことは、所論の指摘をまつまでもないことである。しかし、死刑制度を存置する現行法制の下では、主観的客観的各側面にわたるもろもろの情状を考察し、その罪責がまことに重大であって、罪刑の均衡の見地からも、また、一般予防の見地からも極刑がやむを得ないものと認められるときは、死刑の選択も相当とされなければならない。叙上説示の諸般の情状を勘案すれば、被告人を死刑に処した原判決の量刑はまことにやむをえないところであって、これが重きに過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 寺澤榮 裁判官 片岡聰 小圷眞史)

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